松永陽子

小杉 茂

人見利江

玉村順子

相ノ谷智子

清水和男

北澤五百子

泉田容子

堀田泰子

大橋俊雄

鶴岡成吾

豊田光廣

尾ヶ井久美子

小松崎明子

伊藤美代子

石瀬哲弘

市川清

吉瀬徹一

櫻井悠介

瀧澤邦夫

生形秀子

飯作紀世江

笠原紀一
和田一丁目町会 役員ブログ  機関紙 ”ここに人あり” の原稿を活用しています




Matsunaga
小田原から和田に移り住んで!
   和田一丁目町会  
   
役員  松永 陽子
こんにちは! 始めまして、松永陽子と申します。
二年前、結婚を機に神奈川県の小田原から移り住み、こちらの和田一丁目にお世話になっております。
小田原は気候的にも温暖で生活しやすく、のんびりとした雰囲気があります。山と海も近く、お魚は特に新鮮で美味しいです。

箱根へも気軽に行け日帰り温泉でリフレッシュできます。
また、富士見大橋からの富士山は絶景で大パノラマで富士山を見るのが日課でした。
東京での生活は環境的にも全く変わってしまうのかと思っていましたが、和田一丁目は静かで私の住んでいた町と似通ったところもあり安心できます。昨年の今頃、お向かいの伊藤副会長さんより役員として誘っていただき、五月の総会から参加させてもらうようになり、もうすぐ一年になります。
少しでも地域のお役に立つことをさせてもらいたいと思う反面、和田一丁目での生活が一年足らずで何も知らないし分からない私に何ができるかと悩みましたが勇気を持ってまず一歩を踏み出してみようと思い受けさせて頂きました。

一年を通して沢山の行事があり驚きましたがお陰様で皆さんにも温かく迎えていただき、今に至っております。 何よりも会長をはじめ役員の方々の熱意ある姿勢に学ばせていただいています。
昨年八月の盆踊り大会で何十年かぶりに浴衣を着てやぐらの上で子供たちとアンパンマン音頭を踊り、生まれ育った小田原での楽しかった盆踊りを思い出しました。私もこうやって地域の方に見守られお世話になってきたのだなあと振り返ることができ和田一丁目の地で恩返しをして行きたいと思いました。

十月には和田中学校で震災救援所訓練を行いました。いつ起こるかもしれない災害に対して生徒さんが真剣に訓練をして地域の方とグーループ討議で話し合いができました。
校長先生の新しい試みで生徒さんと地域の方とのコミュニケーションとなり距離が縮まったのではないかと思います。様子を見させて頂き和田中学校の生徒さんは、たくましく頼りになると思いました。

今年に入り二月の行事として餅つき新年会、女子美術大付属高中学校の震災訓練、和田小土曜授業<日本伝統遊び>がありました。土曜授業では、あやとり担当だったのですが子どもたちが、とても喜んでくれ、むしろ私の方が教えてもらうこともあり子供たちと楽しく触れ合うことが出来ました。
その後「町会の方へ」と,一・二年生から感謝のお手紙をいただきました。一生懸命書いてくれた手紙を一枚一枚見せて貰い、何度も消しゴムで消したあとがあって、とても感激しました。来月で役員二年生になります。先輩役員さん方にこれからも教えていただき地域の皆さまにもお聴きしながら和田一丁目の街にもっと馴染めるよう頑張ります。地域の皆さまと共に楽しく活動して行きたいと思いますのでよろしくお願いいたします。


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和田に移り住んで65年!
   NPO法人 すまいる・わだ  
   
スタッフ  小杉 茂
平成29年6月より、「NPO法人すまいる・わだ」にスタッフとして参加させていただいています小杉と申します。地元の旧友より「スタッフになってみないか」と誘われ、不安は有りましたが友人も勤務している事もありお世話になることに致しました。子供のころは現在の新高円寺あたりに住んでおりまして都電の車庫(現在の都バスの車庫)の脇あたりだったと記憶しております。戦後まもなくで廃車になった都電を改造して住んでいる方が居る時代でした。その後現在住んでいる場所に引っ越してきて和田小学校そして和田中学校に通学しておりました。自宅の場所は以前畑だったそうで父が家を建てたころは、蛇が縁の下に入って行くのを目撃してびっくりしたり、モグラが庭先を掘り起こしたりしていました。自宅の隣が防火用水の池になっておりガマガエルが生息していました。ところがその防火用水池が建物建設の為取り壊されてしまい、ガマガエルは生存の危機に遭遇してしまう事になりました。そこで動物好きだった父と私は何とか助けようと、市販の小さな池を購入しカエルが産卵出来る環境を作りました。その後20年ほどその池に産卵しオタマジャクシからカエルとなり生き永らえて来ましたが、今度は自宅の建て替えで泣く泣く池を取り壊す事になってしまい我が家のガマガエルは残念ながら絶滅してしまいました。今自然に生息する生き物はヤモリだけになってしまい何とか生存し続けて欲しいと思っています。和田の街もマンションが増え若い家族がどんどん入居してきています。まだスタッフとなって日が浅いですが、始めた頃よりも駐輪する自転車の台数も増えている様です。これからは「すまいる・わだ」の自転車駐車場の役割もますます重要になってくると思います。理事長、理事の方そして先輩スタッフの方々の御指導を受けながら楽しく勤務していきたいと思っておりますので宜しくお願い致します。 
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hitomi
住みやすい町 "和田!”
   和田一丁目町会  
   役員(交通安全担当)人見 利江


 
はじめまして、私は、和田一丁目に住んでいる人見利江と申します。町会役員は、3年目に入り、今は交通安全・防犯担当をさせて頂いています。
 私の生まれ育った町は、新宿区住吉町という所です。都営新宿線の曙橋が最寄りの駅で、近くには、河田町の東京女子医大があり、防衛省もあります。
 昔は、フジテレビ局もあって、いつも人が溢れていて、賑やかな町だったと思います。
 私の通っていた小学校は、フジテレビ局の正面を通る通学路だったので、いつも芸能人が、居ないか楽しみにしてしていました。
 
 フジテレビ局の城下町と言われたフジテレビ商店街(今は、あけぼの橋商店街)があり、スタジオに近い局スタッフ、タレント、マスコミが交流する拠点だったようで、お店は、いつも混んでいました。
 楽しみにしていたのは、8月8日がフジテレビのお祭りで、局見学、出店やイベントがあり、一日中楽しめました。人が溢れて賑やかな商店街も、平成九年フジテレビの移転により、賑わいも減少したようですが、従来からの女子医大の関係者の方や、大江戸線開通、フジテレビ跡地に、高層マンション、放射六号線の整備などで、活気を取り戻したようです。

 
 私は、和田に住んでいた主人と結婚し、和田に移り住んで20年になります。生まれ育った町を離れましたが、懐かしくなると、新宿からでも歩いて行けるので、昔の思い出を辿りながら、自分のルーツを振り返っています。
 
 町会役員に入ったのは
和田永住と決めたからです。町会役員に入っていた玉村順子さんに紹介して頂きました。最初は、行事の多さに驚きました。

 仕事をしているので、全て参加はできませんが、町会役員の皆さん色々と教えてもらいながら、楽しんで参加してます。

 これからも、町会の行事を通して人々とのふれあいを大切にし、次の世代を担う子どもたちが、安心して住めるように、地域活動のお手伝いをして行きたいと思います。

 皆さま、町会の活動にぜひご参加ください。多くの出会いがありますよ!

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tamamurajun

地域活動のお手伝い
和田一丁目町会
       
役員  玉村 順子

こんにちは、私は玉村順子と申します。結婚を期に、主人の地元である和田一丁目に住み、早や三十二年になります。和田は、とても住みやすく、特に問題もなく、静かで穏やかな街です。それでいて、新宿にも近くて交通の便もとてもいいです。
息子が就活の時、どこに行くのにも便利で、ここに住んでいて良かったと言っておりました。本当に恵まれた環境で幸せです。
さて、地域活動に参加することになったいきさつをお話ししたいと思います。知り合いの方から、「町会の役員を良かったらやってみませんか?」とお声をかけて頂きました。最初は、正直嫌だなと思いました。仕事で休みは日曜日だけ。あとは、金曜日、土曜日、祝日の午後は空いていますが、役員を引き受けたら、益々自分の時間が無くなってしまいます。しかし、これも何かの縁と思い、また、義父も生前ずっと地域の活動に貢献していました。今度は、私が引き継いで出来たらと思いましたのでお引き受けすることにしました。
1~2年のつもりで活動しておりましたが、これが意外とやってみると楽しくて、何だかんだともう六年目に入ってしまいました。

和田一丁目の町会は、特に他に比べたらイベントが多く、なかなな忙しいです。震災訓練、盆踊り、餅つき大会、ノベンバーフェスタ(地区町会連合会主催)、各お祭りでの模擬店出店、和田小学校土曜授業、通学路見守り、清掃授業など。また、イベントがあると事前の話し合い、前準備、当日活動、終わった後は、反省会と大変です。以前は、結婚して和田に引っ越した時、春と秋に交通安全のテントに座っている人を横目に見ていましたが、まさか二十五年後に自分が座っているとは思いませんでした。解らないものですね。

今は、地域活動に係わることが出来て良かったと思っています。毎年盆踊りに来てくれる子供たちを「大きくなったな~」と成長を見られるのも、いいですね。各イベントを通じて沢山の人と知り合うことができて、貴重な時間を与えていただき、感謝しています。一年の内後半は、特にイベントが立て込んでいて、空いてる時間はほとんど埋まってしまい、身体が「キツイ」ですが、あっと言う間に一年が過ぎていく感じです。でも充実しています!地域の皆さま、和田一丁目の各イベントに是非ともご参加いただくことをお待ちしております。私の顔を見かけたら気軽にお声をおかけください。これからも、少しずつ、お手伝いが続けられたらと思っています。ありがとうございました



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ainoya
"ロスアンゼルスから
和田一丁目へ!”

 和田一丁目町会 役員  相ノ谷智子

 
あけましておめでとうございます。私は和田1丁目に在住の相ノ谷智子と申します。家族5人でこの街に住んで10年以上が経ちました。その前は主人の仕事に伴い、米国のロスアンゼルスに9年間住んでいました。ロスアンゼルスは年間を通じて温暖な気候に恵まれています。メジャーリーグのドジャースが本拠地を構え、映画の街ハリウッド、歌謡曲でもお馴染みのサンタモニカなどが有名です。

 ロスアンゼルスは多民族の街としても知られています。世界各国から人々が移り住み、互いの違いを認め合いながら共存しています。日本人も明治時代よりリトル東京を中心とした日本人コミュニティを形成してきました。私たち夫婦が渡米し、何もわからない頃のことです。ある日本人コミュニティを尋ねたところ、皆さんが快く受け入れて下さりました。そのおかげで、日常生活をスムーズに始めることができました。それからというもの、私自身も積極的にコミュニティ活動に参加し、多くの人々に出会い、交流を深め、あっという間にロスアンゼルスに馴染むことができました。

 日本にいる頃の私の職業は、イベント司会でした。その特技を活かし、ロスアンゼルスでもさまざまなイベントの司会者として地域活性のお手伝いをさせていただきました。そこには、イベントや催し物を通じて地域の人々が心を通わせ、住む町に誇りを持ち、住みやすい街づくりがなされていく姿がありました。それは私にとって、自分とコミュニティの関係について深く考えるきっかけとなりました。

 9年のアメリカ生活を経て帰国後、和田1丁目に住むことになりました。はじめに感じたことは、街がきれい、ということです。防災訓練やパトロールの姿を見かけるたびに、安心して子育てのできる街だと思いました。また、幼い3人の子供を連れて盆踊り、運動会、お祭りなどの催しものに参加するたびに、和田の街に住む人々が持つ温かさを感じてきました。一昨年より和田1丁目町会役員のお仲間に入れていただきました。米国で体験した、コミュニティに所属するからこそ得られる喜びや感動を、和田の地に住む皆さんと共有できたら嬉しいと思います。


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shimizu

名所旧跡を愛でる心で
   お客様に笑顔で接したい

   NPO法人すまいる・わだ  
        
スタッフ  清水 和男

定年退職してから4年近くになりました。振り返ってみると、本当に「あっと」いう間で、光陰矢の如しという言葉を改めてかみしめています。
これからは、一日一日を有意義に過ごしたいと思い、その一環として、都内の名所旧跡巡りを始めました。私は、特に江戸時代の史跡に興味があるのですが、現地で史跡の来歴を読んで、その当時の様子をいろいろ想像するのが楽しいです。先日は、墨田区の向島を散策して来ました。地下鉄銀座線の浅草で下車して、隅田川にかかる言問橋を渡ると向島です。隅田川沿いに隅田公園があります。

隅田公園は、都内有数の桜の名所として知られています。その広大な敷地の一部は、かって水戸徳川家の下屋敷があったところです。園内の日本庭園は、下屋敷にあった池などの遺跡をもとにして作られたものだそうです。日本庭園を眺めながら、しばし往時を偲んできました。隅田公園の一角にあって、「なで牛」で知られる牛嶋神社を参拝後、見番通りに向かいました。この通りには、三囲神社(みめぐりじんじゃ)や弘福寺、長命寺などの神社仏閣があります。

三囲神社は、三井家(越後屋)が江戸進出時に、その名にあやかって守護神とした神社で、境内に旧三越池袋店のシンボルだった青銅製のライオン像が移設されていました。神社にライオン像は、一見奇異な感じですが、不思議と違和感を覚えませんでした。

弘福寺は、かって森鴎外のお墓があった黄檗宗のお寺ですが、境内の一角に時代を感じさせる茶室があって、静けさの中で佇んでいると、江戸時代にタイムスリップしたような感覚におそわれました。

長命寺は、天台宗のお寺で、三代将軍家光が、境内の井戸水を長命水と命名したことから、寺号も長命寺と改めたとのことです。その井戸は、現在も残っていて興味深かったです。
見番通りの北端付近に、石碑や史跡の案内板が多くあり、いろいろ知ることができて楽しかったです。時間の関係で思ったほど回れませんでしたが、大満足で帰路につきました。

勤めていた時は、大変なこともいろいろありましたが、今は、平日の昼間に好きなことをしていられることを有難く思っています。これからも名所旧跡巡りを続けていくことができるように、健康に留意して生活していこうと思います。

私は、昨年6月から、中野富士見町自転車駐車場「すまいる・わだ」で週一回働かせていただいています。「すまいる・わだ」は、とても働きやすい職場で、同世代の先輩たちが、トリプルS(スピーチ・スマイル・スピード)のスローガンのもと、生き生きと働いている姿に刺激を受けています。

特に、利用者の方々に、笑顔で声かけや挨拶をすることを励行しているのですが、スタッフの皆さんが、それを自然体で実践しているのは、すばらしいと思います。
 私も、利用者の方々に少しでも気持ちよく利用していただけるように、笑顔を心がけて働かせていただこうと思っています。


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kitazawa
気がつけば地域を愛して四十余年
   NPO法人すまいる・わだ  
        スタッフ  北澤 五百子

私と“すまいる・わだ”とのお付き合いは、あっという間に
10年以上の月日が過ぎてしまいました。

最近では、女性のスタッフも増えましたが、開設当時は、3名しか居なく、寂しい感もありました。

でも、「すまいる」の男性スタッフは、皆さま本当に紳士でやさしく、いつも暖かな気持ちになります。和田自治協力会役員の一員でもあるわたしは、自治会活動をすでに18年の永きに亘りボランテイアして参りましたが、それに加えて「すまいる」のスタッフ活動、ゆうゆう館のお手伝い、など少しでも地域の方々のお役に立てればと思い活動を続けてまいりました。地域活動をすることにより人と人との繋がりもできるような気がいたします。特に自治会活動での「女性部会活動」や「バスハイク活動」は、参加される方々の喜んでくださる「笑顔」が、役員スタッフとしての大きな嬉しさにつながり、やっていてよかったと思うことが沢山あります。

東京に嫁いで早や44年、今では故郷よりこの杉並和田に愛着を感じる今日この頃です。私の故郷は、静岡の駿府城跡の近くで、子どものころは、よくお城の周りで遊んだものでした。春には、お城の周りは桜で満開になり、夏には、外堀で水遊びに興じたり、秋は紅葉、冬は枯れ葉を集めての焼き芋会など今思い起こすと楽しい光景が目に浮かびます。静岡~東京は、新幹線で1時間余りですが、なかなか両親の面倒は思うように見ることが出来ず、兄嫁任せでした。なんで、こんなに遠くへ来てしまったんだろうと思うことがありました。でも、その分主人の両親の面倒は、後悔することなく十分お世話することができました。主人に言わせると里の両親は、きっと理解して喜んでくれていると思うよと優しく労わってくれ、その分心が休まっています。

私の大切な宝ものは、今までボランテイアとして色々な活動で得たお知り合い、地域の方
方です。

これからも、体力のある限り地域活動をつづけ、“すまいる・わだ”でお世話になりたいと思っています。 誰もが感じることだと思いますが、まさか自分が70歳になるなんて思ってもいませんでした。あと数年したら私自身、地域の方のお世話になるかもしれません。そのようにならないためにも、健康を気遣ってラジオ体操など頑張ってやっております。

これからも、「すまいる・わだ」共々、よろしくお願い致します。


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izumita
熱海さくら”に ウキ!ウキ!
   NPO法人すまいる・わだ  
        スタッフ  泉田 容子


 三寒四温を繰り返しながら待ち遠しい春に近づいています。
先日、伊豆方面へ旅行をした折、河津さくらは、もう葉桜になっていましたが、帰りに寄った沼津にある柿田川湧水公園の中に咲いていた桜がとても綺麗でした。
この桜は、「熱海さくら」という品種で、河津桜の咲いた後の2番手で咲く花だそうで、少し濃いめのピンク色の大きな花びらで、とっても華やかで、見ているだけで「ウキウキ」と幸せな気持ちにさせてくれました。
東京の桜は、これからなので、とっても楽しみにしています。

私は中野富士見町自転車駐車場、「NPO法人すまいる・わだ」で週一回働いています。スタッフの皆さん全員、とても明るく楽しい方々ばかりで、何よりも皆さん親切でボランテイア精神に満ち溢れています。「すまいる・わだ」では“トリプルS”の励行というスローガンを掲げています。
1つ目は「スピーチ=明るい声かけ」、2つ目は「スマイル=微笑み」、3つめは「スピード=迅速」。すべて利用者さんに気持ちよく利用して頂けるようにとの心構えと行動を示したものです。

駐車場の周りには、スタッフさんが四季折々の花々を植えて、目を楽しませてくださっています。女性スタッフさんは、女性ならではの優しい気配りをされています。

これからも利用者の皆さんが、一日元気に気持ちよくお仕事や学校などに出かけられますように私も笑顔で送り出していこうと思います。

余談ですが・・・私は鬼平犯科帳が大好きなので温かくなったら、長谷川平蔵ゆかりの場所を巡ってみたいと思っています。

どなたか、同じ趣味の方が居られましたら、お声掛けをしてください。楽しみにしています。 


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hota
親の家の片づけ」講座を開いています
    和田一丁目町会 役員  堀田 泰子
 
清々しいお気持ちで、新たな年を迎えられたことと、お慶び申し上げます。
はじめまして、私は交通安全担当の堀田泰子と申します。
今から三十五年前、結婚を機に杉並区荻窪の天沼という町から和田一丁目に越してきました。和田には学生の頃からボランテイア活動で来ていましたので、この町がたいへん好きで将来は住みたいと思っていました。嫁いで一年後の昭和57年9月、台風による影響で神田川が氾濫し中野富士見町駅周辺の地域が床上・床下浸水など洪水の被害にあい大変な混乱状態に堕ちいりました。あの日もいつものように神田川の水位を超えるサイレンが鳴り響き、その後にこれから起こる大惨事など私には予測もつきませんでした。

我が家は、家具製造卸業の会社で店舗販売もしており、店内には、これから出荷する品物がぎっしり入荷されておりました。水の勢いは激しくマンホールからも吹き出し、あっという間に道路が川のようになった瞬間、お店の床から水が噴き出しはじめ、閉めて置いたシャッターは外からの水に押しつぶされ、隙間から大量の水がどんどん流れ込み、軽い家具が浮きはじめ、婚礼タンスなど重たい家具まで浮きはじめました。従業員と手で押さえてもどうすることもできず、水が引けるのを待つことしかできませんでした。

停電で町全体が真っ暗になり朝を迎えるまで本当に長く怖い夜でした。駅周辺の被害状況は、日を増すごとに膨らみ、我が家もそうですが、日常の生活を取り戻すまで時間と労力が必要でした。今でこそ、大雨が降った時はサイレンが鳴っても安心して眠れますが、洪水を防ぐ貯水施設ができるまで浸水は数回続きました。

 神田川の氾濫で床上浸水 

私が、町会の役員になったきっかけは自然災害の怖さを体験したからです。皆さん、いざという時の準備はお済でしょうか?「その日」は突然やってきます。町会は、皆さんが参加できるイベントが多数開催されていますが、「防災訓練」には特に力をいれておりますので、皆さんの参加を楽しみにお待ちしております。

最後に、昨年から地域ボランテイア活動で「親の家の片づけ」講座を開催しております。親に安全に暮らして貰うために、お部屋の整理をする。高齢者でケガや骨折をする人の半数以上は部屋で転んでいます。親の世代にとって一番怖いことは「転倒」です。地震が起きた場合のことを考えて、親が寝るベッド、布団の周りには転倒するような家具はないか、照明など頭上にある家具が落ちてこないか、本棚や食器棚には留め具はしているか、窓ガラスには飛散防止フィルムが貼られているか、家の玄関、勝手口などモノや家具で塞がれる可能性はないかなど確認しておきましょう。これからも多くの方との「ふれあい」を楽しみにお手伝いをさせていただきます。

皆さんのご参加を楽しみにお待ちしております。これからもよろしくお願いいたします。




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ohashi
”町会交通部”のお手伝い
    和田一丁目町会 役員  大橋 俊雄
 皆様よろしくお願いいたします。私は、和田一丁目に在住の大橋俊雄と申します。地元の和田小、和田中出身で、現在勤務しております職場も和田一丁目町内にあります。

 遠距離を毎日通勤されている方には、一寸お叱りを受けてしまうかもしれませんが、通勤時間は、片道約十分足らずです。その十分足らずの道のりでも、勤め始めたころより、だいぶ環境の変化がありました。一軒のお宅、あるいは社宅が壊されて更地となり、その後に数軒の建売住宅が出来たり、マンションが建ったり、あるいはコインパーキングになった所もあります。新しいものが建つてしまうと、以前そこには何があったのだろうか?思い出すまで時間がかかってしまうのは、私だけでしょうか。時代の流れという一言で片づけられないかもしれませんが、見慣れていたものが無くなってしまうというのは、何とも寂しい限りです。

 さて私と和田一丁目町会との出会いは、「町会交通部のお手伝いをしてくれないですか?」という町会役員の方の一言からでした。「お手伝いの内容はどのようなものですか?」とおたずねすると、春と秋に行われる交通安全運動期間中に交通部のテントの中に入ること、夏に開催される町会主催の盆踊り大会会場周辺の交通警備、秋の例大祭での神輿の町内巡行時の交通警戒においては、杉並警察のご指導のもと、環状七号線及び本郷通りの車線規制も活動内容に入っているとのお話でした。何人かで行うとは言うものの、そのようなことが私にも出来るのか不安でしたが、お声をかけて頂いたのも何かのご縁と感じ、町会に入らせていただくことになり、現在に至ります。

 消防団活動について
 私は、また、地元の消防団にも入団しております。こちらの方は、ご近所の商店主の方に入団を進められ入りました。入団以前には、消防団は、火災時にいち早く現場に出向き、消火のお手伝いをするというだけのイメージがありました。(極く稀にはあります9.実際に入団してみてわかったのですが、消防団の最大の使命とは、“火を出さない安心安全な町づくり”ということでした。燃えやすい物などを建物のまわり等に置かないことや、調理中の火災予防などの啓蒙活動、それでも万が一、火災が発生してしまった時には、あわてず落ち着いて消火が出来るようにするための消火方法を各地域の防火防災訓練時に地域の皆様とともに確認させていただくなどの活動でした。 

 何年か前より、和田地区に、震災救援所が三か所立ちあがり、それぞれ年一回の訓練が実施されています。訓練メニューなども初期消火訓練、避難誘導訓練、心肺蘇生訓練、応急救護訓練のほかタイミングによっては、起震車体験訓練、煙体験訓練等も実施されています。そして、最近重要視されている安否確認の訓練も大切ですが、これについては消防団よりも、むしろ地域町会の方が頼りの綱となってまいります。

 災害はいつ起こるかわかりませんので、機会が或る度に訓練に参加して、頭でなく身体(筋肉)で覚えていくことで、いざという時には、少しもあわてずに行動がとれるようになるはずです。私の所属しております消防団は、和田地区はもとより、お隣の堀之内地区、そのまたお隣の松の木地区と大宮地区が受け持ち地域となっており、現在第二と第四木曜日の夜七時半ごろより九時ごろまで、その地域を小さな消防車や徒歩で警戒にまわっています。「ご苦労さま!」と声を掛けてくださる方がいますが、本当にありがたい一言です。

 町会や消防団に入り、多くの方と接することにより、新たな気づき、心の触れ合いが得られ多様な気がします。物事が何かと複雑な時代となりましたが、だからこそ人と人との触れ合いが大切であり、また求められているように感じます。和田一丁目町会の標語は“ふれあいの街”となっています。
これからも多くの方とのふれあいを楽しみに、お手伝いさせていただきたく思います。ありがとうございました。




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tsuruoka
和田に住んでよかった!
          これから楽しみです!”

   和田一丁目町会 役員  鶴岡 成吾
 鶴岡成吾と申します。
 私は和田から少し西の小金井で生まれ育ちました。仙台出身の妻と7歳と2歳の息子と合わせて4人家族で、5年前から和田に住んでおります。まだ新参者です。
 友人が和田に住んでいたこともあり、30年近く前もよく和田には遊びに来ました。
 当時、丸の内線が中野坂上のポイントで真っ暗になるのにびっくりしたのを覚えています。私は人見知りではありますが、人と接するのは大好きです。おかげさまで和田であいさつを交わせる人が増えました。うれしい限りです。和田地域・役員の皆様には大変お世話になっております。

 今回は町会役員よりお誘いいただき、私でも何か地域のお役に立てるならと思い役員をやらせていただきました。

春からやってみて分かったことは、役員の皆様の頑張りがあるからこそ、和田の街が生き生きとしているのだと言うことです。お祭りは子供の頃から今まで受け身で参加していました。和田1丁目の盆踊りには今回、準備から参加させていただき役員の皆様のありがたみを知りました。また、地域の皆様が楽しそうにしているのを見て自分も充実感を感じることができました。
 和田中における震災訓練に関しても同様です。いち早く先輩の役員方から学び、 お役に立てるようがんばります。

 長男が和田小に就学したタイミングでPTAの野球チームからお誘いを受け、30年のブランクで野球も始めました。まだまだへたくそですがチームのみなさんにやさしくご指導していただいております。そのおかげで最近は肩こりがなくなりましたし、運動不足の解消にもなり始めました。

 私たちの世代が地域の繁栄にもっと協力をすれば和田はさらに魅力ある街になるのではないかと私は考えます。和田にお住まいの方々の年齢分布を見ると、304050代の方が合わせて全体の半数近くのようです。周囲の同世代を見ていると、新しいことを始めるのに抵抗を感じる人が多いように見受けられます。自分も仕事、家庭、子育てにと、正解がわからなくて試行錯誤しています。
 ともに地域活動をしませんか。

 勤め仕事をしている関係でなかなか時間が取れませんが、私も自分ができることを少しずつでもと頑張っております。仕事にとらわれず、残りの人生でどんな風に地域や社会の役に立ち、生きた証を残したか。私はこれをとても大事なことだと思います。

 これからの和田をより魅力的な街にして、「和田に住みたい」「和田に住んで良かった」と皆様に思っていただけますように。コミュニケーションが相互の信頼関係を深め、住み始めてますます和田の街への思いが深まっていきました。
これからもよろしくお願いいたします。


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toyota
定年退職”と”地域貢献”
   和田一丁目町会 役員  豊田 光廣
定年退職後の第二の人生が始まる。昨年の今頃は、退職後に何をしようかと考えを巡らせていました。
 40数年のサラリーマン生活を卒業し、やっと自分の時間を使えるようになる。60代の一大イベントと言えば、やはり定年退職です。
 会社に縛られていた生活から自由の生活へと変わります。大きなイベントです。「60半ばにして人生で最も自由な時期がやってくる」と思っていました。しかし、私にとって、定年退職は終わりではなく始まりでした。第二の人生の幕開けでした。

子供も自立して手がかからなくなりました。肉体的、精神的にも解放感にあふれています。

しかし、「もう年だ」と言っている場合ではありません。私は「二足のわらじ」どころか「三足のわらじ」を履いてしまったのです。その一、パートスタッフとしての仕事。 その二、東京都 民生・児童委員。 その三、和田一丁目町会役員の三足のわらじです。

自分にとって生きがいとは何だろうか?昨年までは意識をしなくても常に生きがいがありました。学生時代は勉強であり、社会に出てからは仕事であり子育てです。しかし、六〇代からは意識して生きがいを持つ必要があるのではないでしょか。新しい生きがいが、これからの人生の支えになるものだと思い私は前記した三つの仕事を選びました。(今では、自分の時間がなくて少し後悔していますが・・・)

私が和田に住み始めたのが昭和四九年、今年でちょうど40年になります。サラリーマン時代は町会の行事への参加は難しいものがありました。自分のことで精一杯だったからです。しかし、定年退職後は自分から地域の人とつながりに行かないと繋がれないと考えました。繋がりを持つためには接点が必要です。

町会役員になったのは、この理由です。幸い和田一丁目町会には沢山のイベントがあります。

地域イベントと言う接点を持つことで自然に人と出会え、絆を深めることができます。参加人数が多いほどイベントは盛り上がり、自分も皆も楽しめます。町内の皆さんもイベントに積極的に参加しませんか?

孤立する高齢者(自分も高齢者ですが)、様々な犯罪や事故に苦しむ子どもたち、共働き世帯や母子家庭の子育て支援など、地域の課題は多く重いものがあります。これらに少しでも役に立てればと思い、民生・児童委員にもなりました。

私が若いころ、65歳と言えば、よぼよぼの老人のイメージを抱いていました。現在の65歳は、まだまだ活力にあふれています。その気になれば再就職して働くこともできます。ありあまる時間や体力を僅かながらも小遣い銭に換えることができるのです。これがパートスタッフとして働いた理由です。

65歳は、これからも大きな可能性があるのです。私は自分の選んだ可能性に生きがいを感じ、残された時間を有効に使っていきたいと思っています。

世のため人のためにと義務感で肩ひじ張って行う地域活動は疲れるし、長続きはしないと思います。

自分のためと思えば気が楽で、得るものも多いと思います。三足のわらじを選んでしまった今、どれも中途半端にならないよう、身体に注意しながら活動をして行きたいと思います



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”町会活動”に参加して
   和田一丁目町会 役員 尾ケ井久美子
こんにちは!はじめまして! わたくしが和田一丁目町会役員の皆さまのお仲間に入れて頂きまして、二年が過ぎました。
主人、妹、弟、我が家の子ども達も和田小学校、和田中学校を卒業し、地域や町会の皆さまにも大変お世話になっていましたので、どんな形でもお返しをしたいと思っておりました。

町会役員へお声を掛けて頂き参加しますと、これまでの方々の伝統を引き継がれ、とても温かい雰囲気と一生懸命イキイキと活動されていて、あらためて感動いたしました。

 わたくしは、交通安全担当に加えて頂きました。大先輩の方が、やさしく温かくひとつひとつ丁寧に教えてくださいました。交通ルールや交通マナーの実践と習慣づけと共に、交通事故防止を目的として、年二回、春秋の全国交通安全運動が実施されます。

町会としましては、和田一丁目交番隣りに、推進本部(テント)を設置します。初日と最終日の朝に大聖堂入口交差点、横断歩道での誘導、交通安全高齢者自転車訓練大会の参加、時には、杉並警察署のおまわりさんにお越し頂き、保育園児に交通ルール、マナー教室も開いております。園児さんの真剣な中にも愛らしく、微笑ましい光景に心が和みます。

これらの行事には、交通安全担当役員四名が一丸となり取り組んでいますが更に全役員のご協力を頂き、和田一丁目内の交通事故防止に努めております。

交通安全担当は、地域の方々の安全をお守りする大変重要なお役ですが、ここ一、二カ月の中で実施される大きな行事があります。まず、七月四日の第3震災救援所訓練(佼成会杉並教会)、八月二日・三日の和田一丁目町会盆踊り、九月二七日の和田中震災救援所訓練などを予定しております。これらの行事は、地域の方々に多数ご参加頂き、共助、自助を体験頂く地域にとっての一大イベントで、「街の絆」を深める重要な行事です。皆さまぜひ関心を持って頂き、絆の輪を広げていきたいと望んでおります。私たちも、これらいろいろな行事を通して町会の皆さまとともに悦びの「ふれあい」を心がけます。

これからも、安全で住みよい街づくりに励んでいきたいと思いますので、皆さま、どうぞよろしくお願いいたします。

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komatsuzaki
”つながり”を意識した子育て支援
   和田一丁目町会 役員 小松崎 明子
みなさま、こんにちは。私は、この和田に生まれ育ちました。子ども時代は自宅前の公園で、木登りやままごとをして夕方遅くなるまで遊んでいた記憶があります。学生時代は電車通学でしたので、地域に密着した生活は送っておらず、自分が住んでいる地域がどんな地域かという関心すらありませんでした。

大人になり、両親が経営する店を手伝うようになってからは地域のみなさんとの触れ合いが多くなり、次第に地域のことを気にかけるようになりました。すると、今までは見えていなかった人と人のつながりが多い地域だということに気が付いたのです。外ではご近所さん方が顔を合わせると『こんにちは、今日はいい天気ですね~!』、『最近お顔見えなかったけど元気にしてる?』など、他愛もないことですが、声を掛けあっていました。何故、こんなにも人とのつながりが強いのか、そう思いながら月日が流れていくうちに、昔からこの地域では助け合いの心が育っていることがわかったのです。私が住む川沿いのこの地域では、昔から大雨が降ると洪水の被害を受けていました。その度に人々は声を掛け合い、助け合ってきたのです。この経験が、自然とつながりを生み今日に至ったのでした。

 そしてこのつながりは、あの311日の時にも力を発揮したのです。大きな揺れを感じた後、周辺のみなさんはそれぞれ外に出てきて声を掛け合いました。『○○さんは今デイサービスに行っているからお宅にはいないわよ』と教えてくれる方もいれば、『○○さんは足が悪いから、見に行ってきます』と若い方が動いて下さったり、近くの会社の方も『こちらでできることがあれば動きますので、指示してください。』とお声掛け下さいました。いろいろな方がご自分のできることで協力して下さったのです。私はここまで皆さんの結束力が強いということは感じたことがなかったので、この和田という地域に住んでいることに感謝と誇りを感じました。

今後、私はこの『つながり』を意識しながら若い子育て世代の皆さんが、自分達の住む和田のことを知る機会をもち、まちの“お知り合い”を増やすことができるようにお手伝いしたいと思っています。

少しでも若い世代からシニア世代までがつながって『安心・安全なまちづくり』を共に目指すことができたらいいなぁ思うのです。


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”バスハイク”あれこれ!
   和田一丁目町会 副会長 伊藤 美代子

♪ 頭を雲の上にだし 四方の山を見下ろして~富士は日本一の山 ♪

懐かしい唱歌を思い出します! 旅をして富士山を見つけると何故か不思議なパワーを貰い、「徳」をいただいたような気持ちになるのは、私だけでしょうか?町会から富士山方面は、何度か行きましたが、このたびの「バスハイク」は、世界文化遺産に登録された富士山と三保の松原をテーマにしてみました。

「あんなに楽しかったバスハイクは初めて!」「富士山を間近に見て、感動したわ!」「盲導犬ハピーワーカーの苦労を知ることができて、勉強になりました」など喜びの声を聞かせていただき、こんなに嬉しかったことはありません。

今年の「バスハイク」の実行委員長に役員の皆さんから推薦され、心配のまま実行委員会に挑みました。5月の町会総会で副会長を仰せつかり、更に「バスハイク」の実行委員長を引き受けることになり不安な気持ちで一杯でした。実行委員の皆さんから支えられての私ですが、昨年までと違ういくつかの方針変更を行いました。

去年までの休日での開催を、ウイークデーに行うことが大きな変更点で、更には、一丁目町会員以外の参加者には、会費の2割りアップで参加可能としたこと、昼食を少し豪華にすることなどです。また、盲導犬の教育センターにも立ち寄り、教育する方々の苦労話や実地見学をコースに取り入れました。ご協力いただくご来賓も2団体増えて、交流を深める企画となりました。

これまでに強い印象に残っています「バスハイク」は、役員になって間もないころに伊東の大室山での景色です。毎年行う「山焼き」が有名でもあり、丁度お椀を伏せたような「ゆるやかな山」です。十月の下旬、眩しいくらい黄金色に輝くススキの穂の一面のあいだをリフトで登山したこと、山頂に着くと360度の大パノラマが広がっていたことでした。

薄化粧した富士山はもちろん、相模湾、伊豆七島、南アルプスが眺望できた素晴らしさ!本当にステキでした。今回の富士山、三保の松原と併せて、もう一度行ってみたい場所です。

 過去のバスハイク先は、川越、日光、つくば宇宙センターなどがありますが、今まであまり意識していなかった実行委員の先輩方のご苦労を、改めて感じるバスハイクでした。 
当日は、暖かく、晴天に恵まれ、怪我人もなく、最高の旅行日和でした。皆さまのご協力に改めて、感謝もうしあげます!!


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”和田一丁目の役員”として
  和田一丁目町会防災会役員 石瀬 哲弘
私は、和田一丁目町会の町民となりましたのは、平成九年四月よりで、満十六年間町会に何かとお世話になり、佼成学園中学高校共に同級生の水野憲一さんにお話しを頂き、役員方の賛同を頂き就任しました。

立花産業株式会社に就職し保険代理業の仕事で、転勤生活を通算十八年間全国各地で生活をいたしました。もともと、東京築地新富町生まれの三代目で、根っからの東京人を自負しております。

25歳で結婚し、妻一人と長女・長男の4人家族です。東京本社~大阪~東京本社~仙台~広島~大阪~東京本社と渡り歩き、その土地トチの気質と気風に合わせる苦労はありましたが、前向きに土地柄に溶け込み、東京人が関西商人の商売(あきない)のコツを学びました。そして東北地方のネバリ根性と広島中国地方のドスの利かし方などは、人生の勉強になりました。

平成七年一月十七日の「阪神淡路大震災」は、二度目の大阪勤務で、兵庫県もテリトリーでしたので、十九日より神戸の拠点に入り、惨状のすごさを目の当たりにしました。すぐに、救援活動ボランテイアとともに保険対応処理に入りましたが、関西は当時まで地震がない地域で、地震保険料も安いランクでしたが、掛け捨て型保険が好きでない関西人の気質で、火災保険は加入していても地震保険は付帯しておらず、皆無に近い状況でした。それではと、今後の為に「地震保険加入推進キャンペーン」を行いましたが、関西気風がまた邪魔をし、「こんなに大きな地震は、あと50年はこやへん(来ない)」とキャンペーンは不発でした。

平成九年に東京にもどり、和田町民となり東京メトロ中野富士見町駅前の富士見橋の欄干と当時は成花園のお花屋さんが隣の借家へ住まいました。

それ以来、毎年九月を中心に台風の大雨で、たびたび持っている家財道具を風呂敷にまとめ、裏の立正佼成会第一団参会館へ避難しました。川の水位があと1メートルぐらいで怖い思いをいたしておりましたが、ついに、あの妙正寺川の氾濫とともに、神田川・善福寺川も氾濫し、私どもの借家の所も氾濫しました。毎年のことで、あらかじめ杉並区土木課より土壌を用意しておりましたので、川水が浸水しひざ上まできましたが、懸命に土壌を玄関口と川に面している部屋の雨戸の所へ積み上げました。川の流れの強さを体験したことと、土壌により家の中に氾濫した川水がまったく入らずに浸水被害に会うことがなく、調査に来た保険会社担当者に保険金支払いはありませんと言えたことが、良かったことでした。

これ以来、土壌の威力を信じ、今年も大雨台風18号接近時の九月十四日に土壌を積み上げ、おまじないとなりました。中野区側の警報サイレンは、けたたましく鳴りましたが、安心して過ごせました。

住めば都で、今の借家はありがたく離れることができません。この度の「東日本大震災」は、転勤したことのある仙台の知り合いも被害に会い怖い思いと悲しい思いもありました。

福島の原町地区と仙台閖上地区にボランテイアをさせて頂き、先の阪神淡路大震災と大きく違う被災地のすごさと、今もつづく仮設住宅生活等のご苦労とそれに加えて原発処理対応の遅さに一個人として何が出来るのかと、毎月11日にJR高円寺駅前にて杉並区と災害救援姉妹都市の「南相馬市義援金」募金活動に参加しております。福島より杉並区に避難生活をしておられる方からも、その場で募金を頂くことが間々ありました。現地の市長様から感謝のお手紙を頂き、これからも続けてまいります。

以上のような体験等のことから、これからは自分にふさわしい「和田一丁目町会」防災震災担当のお役を櫻井防災本部長の指導・指示のもと、お役立ちの人生にしたいと強く思う今日この頃です。満67歳は、気合いを入れます。


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ichikawa
”まつり”と”防災活動”に生きがいを求めて
   和田一丁目町会 防災会役員 市川 清

 
私は昭和28年に父が畳店を和田で開業した縁で、中野より引っ越してきました。それ以来和田の皆様にご贔屓いただき、今日まで仕事を続けることができました。

町会の活動に携わり始めたのは昭和50年代の前半に、当時の市民消火隊の責任者であった板垣さんに声をかけられ入隊したことに始まります。当時は、和田も少し大雨が降ると洪水になりそのたびに大変な被害が出ましたが今では環7の地下調節池が杉並区のご努力によりできあがり、すっかり洪水の心配がなくなりました。 その後、消防団にもお誘いいただき入隊し、団活動にも携わり選手として活躍し、指揮者まで勤めさせていただきました。火災出動での思い出は沢山ありますが、一番つらい思い出は、顔見知りの方が火災で焼死した現場に立ち会った事でしょうか。

 その後市民消火隊も和田防災会と名称も変わり和田中が和田一丁目の避難場所に指定され、阪神淡路の震災、東日本大震災があり新たに女子美大や佼成会杉並教会も避難所に指定されるよう運動され現役員皆様方のこれからの活躍が期待されます。
 また、消防署が焼死者を減らす大きな力を持つ家庭用火災報知機の普及に協力して、町会で補助金を付けて普及に努めたことが評価され防災会として表彰されました。私自身も下町のほうのへ仕事に行き怪我人を見つけ通報し救急車の到着までの手当てが適正だったと人命救助で表彰されたことがありました。
 お祭りも好きなので和田睦会の活動が低下した時期があり担ぎ手が集まらず町内の巡幸にもトラックに大神輿を乗せて運んでいるような状況で苦労していましたので、梅田さんらと青年部を作り睦会の活動を皆様と共に支えてきました。

 その後和田東神酒所の世話人代表の太田さんに声をかけられて子供神輿の巡幸や玩具抽選会のお手伝いを沢山の皆様にご協力頂きながら続けました。その後、世話人代表を引き継ぎ子供たちの笑顔を支えに残暑の激しい中水分補給など安全第一を考えながら運営してきました。

 また、今では町会主催 夏の盆踊りに恒例になっています子供たちの太鼓たたきですが、以前は盆踊りは和田商栄会と佼成会通り商店会の両商店会の共催でした。当時の佼成会通り商店会会長の森長さんに盆踊りを盛り上げるために地元の子供たちで太鼓をたたけないものかと相談を受けて和田睦会青年部、和田中生徒会の協力をいただき実現できました。
 のちに、今、和田小校庭で開催されている和田自治協力会の盆踊りにも参加するようになり活動の場が広がりました。
 当時は帝釈天通りにやぐらを組み開催していました。最初に子供たちと参加した年のことですが包丁を持った男が女子中学生を脅かす事件がありました。その時は私が取り押さえ何事もありませんでしたが、これからもどんなことが起きるかわかりませんので注意は怠らないようにしましょう。

 立正佼成会のお会式への和田睦会参加ですが、佼成会にはお祭りには大変なご協力をいただいているので、ひとつご恩返しができないものかと考えていた矢先、和田睦会役員が佼成会お会式に参加しないかと提案され、当時私が会長を務めていたお会式同好会の和衆睦会へ相談があり初参加が実現したものです。

 私が活動できたのも家族の支えと皆様方に協力いただけたからで心から感謝します。 古い話を種々書きつづりましたがこれからも町会活動にできるだけ参加していきたいと思っていますのでよろしくお願いします。 


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kise
”和田地域”と”ボランテイア”
   和田一丁目町会 役員 吉瀬 徹一
 和田に住み着いて20余年経った頃、長年お世話になっている地元和田に何らかのカタチでお役に立つ事が出来ないだろうか、と考えました。
それから10年経った一昨年、62班地域の町会掲示板設置を町会にお願いした事を契機に声を掛けられ、町会役員に仲間入りをしました。仕事は現役で店舗とレジャーホテルの設計業を続けながら役員を務めております。趣味は、以前はサーキットで自動車レース、今は健康維持をかねて下手ゴルフを楽しんでいます。

 助け合う真心の町、和田一丁目。   町会役員では震災訓練担当を努める傍ら、防災と防犯の方もお手伝いしています。町内住民の方々に高齢者が増えておりますので、震災等災害時に高齢者や要介護者にどのような避難・救援体制を取れるかも地域災害対策の重要な要件だと思います。 近隣同士の「絆」という言葉は、一昨年の東北大震災以降、災害時の合言葉的フレーズになり、今日ではやや色褪せてきた感も無きにしもあらずとは言え、万一と言う時これ程大切な繋がりは無いのではないでしょうか。 町会費や回覧板その他の用事で近隣の方々とお会いし、高齢から来る様々な悩み(身体病弱や孤独・孤立感)を耳にした時、かつて全国に在った「隣り組」のお付き合い=絆をもう一度復活させる事が出来ないものだろうかと思いを巡らせます。

 安全で安心して快適に住める和田一丁目。 幸いこの地域は他地区に比べ窃盗・空巣・痴漢等の犯罪が少ない、若しくはここ数年は発生していないとも聞いています。大変有り難い事ですね。残念ながらボヤは時々発生していますが。昨年7月、セシオン杉並に事務局を置く高円寺地域区民センター協議会の新委員募集の際、町会推薦で委員になりました。そして、総務部長に任命され協議会の活動である各種協働事業の下支え業務をしております。また、昨年4月に開園した和田さくらの坂公園(旧称自衛隊公園)のボランティア団体、公園育て組の代表と花壇の育成管理担当の花さかせ隊さくら会副代表になり隊員と共にゴミ拾いや遊具の点検、花の植替えなどをしながら、当公園が地域の憩いの場となってもらえるよう活動しています。

仕事の合間を縫っての活動なので、地域貢献したい気持ちばかりが先走って行動がなかなか伴いませんが、少しでも地域の皆様とのふれあいの輪を大きくしていけたらと思っています。街で見かけましたら気楽にお声を掛けて下さい。


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”風化させない”
   和田一丁目町会 役員 櫻井 悠介

2011年3月11日午後2時46分東日本大震災発生。その時私は、仕事で新宿にいました。今まで体験したことのない大きな揺れに耐えながら、頭に浮かんでいたのは家族のことでした。長い揺れの後、通じなくなった携帯をにらみながら、いつ来るか知れない余震のことを考えて、しばらく安全な屋内にとどまりTVで状況を見守るしか出来ませんでした。TVに映し出される東北の、現実とは思えない惨状に言葉を失いながらも何としてでも帰らなくてはと考えたことを覚えています。
幸い、私がいた場所から自宅までは徒歩で帰ることのできる距離で、再開のめどの立たない電車を待つよりも歩いて帰ることを決めました。

通常であれば約一時間で帰れる距離が2時間ほどかけて帰宅しましたが、歩いていても感じる頻繁な余震やヘルメットをかぶって歩く人の姿に「非常事態」であることを強く感じました。西新宿のビル街を歩くときは、頭上からガラス破片が降ってくるのではないかと、恐ろしさを感じながら足早になり、凍える寒さの中、ただ「家族の顔が見たい」という一心でひたすら歩き続けました。延々と続く渋滞の車列を横目に、見慣れた近所の景色が見えた時は、心底安心しました。そして、自宅へ到着し家族の顔を見たときには大げさですが「生きていてよかった」そう強く思いました。

それ以来、いつ来るであろう首都圏直下型地震に備え、家族間での集合場所の取り決めや避難袋の用意など「備えあれば憂いなし」を実践しています。
皆さんもこの日はさまざまなドラマをお持ちと思います。
今回は、たまたま東北でしたが同じような災害が私たちに訪れる可能性は決して低くありません。一丁目防災本部長という役を拝命していますが、一丁目には和田中はじめ3か所の震災救援所があります。

また、防災会としても各種講演会や消火訓練を行っています。避難所の訓練にも講演会にもたくさんの町会員の方々にご参加いただいています。平成24年10月には「防災予防行政の推進に功労のあった町会」として消防庁からも表彰されました。

あの3・11の記憶を風化させることなく、訓練のための訓練でなく、命を守り、家族を守り、街を守り、商店会・町会・住民とのきずなを一層充実させていきたいと思います。 

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”スキー” と ”私”
   和田一丁目町会 役員 瀧澤 邦夫

スキーとの出会いは、高校時代体育の一環として「スキーコース」を履修すれば、「体育の単位が有利になる」の一言で履修したことに始まります。 当時はクラスで3名位の参加、全クラスで約20名と、少人数でした。

初体験が志賀高原の丸池スキー場で、体育講師の講習を受けるも、当時の板は身長プラス30cm、長い水楢の板に、ストックは竹製、ストックリングは直径1520cm、スキーズボンは学生ズボンの下にゴム紐を付け、ゴムスキー靴、手袋はミトン、防寒用のアノラック、締具は踵にワイヤーを引っ掛けて固定するもので、転倒しても板が外れず、捻挫・骨折等の怪我もありました。

講習初日は、板を履き階段登行、ハの字登行、で緩やかな斜面頂上に辿り着き、いざ滑走と斜面からスタートするや否、スピードがぐんぐん増し恐怖のあまり大転倒!左右に曲がる事も止まる事も出来ない状態で、体中アザだらけの初日を終了。翌日も同様!3日目でようやくボーゲン滑走で左右回転、辛うじて止まる事が出来るようになり、少しずつ興味がわいてきました。

当時、自宅近くの歯科医院で治療を受けていた時、歯科医の先生からスキー教室のお誘いがあり、参加しているうちに滑ることの爽快感が楽しみになりました。学生時代、冬は仲間とスキーを楽しみ、三越本店の登山・スキー用品売り場ででアルバイト、報酬はすべて登山・スキー用品になり、冬はスキー・夏は登山と「四季おりおり」日本の自然にふれる事が出来ました。

当時、冬季オリンピック大会で、日本の猪谷千春氏が回転競技2位の銀メダル、オーストリーのトニー・ザイラー氏が三冠王(滑降・大回転・回転競技で金メダル)、その後、日本で札幌・長野オリンピックが開催され大変なスキーブームでした。東北・上越・信越方面の夜行スキー列車は超満員!網棚にストックを立てその上にスキーを載せてたり、S字フックで網棚の下にスキーケース吊るしたり、足の踏み場のないほどのスキーヤーで埋まった列車は明け方スキー場駅に到着!夜行スキーバスも同様で高速道路などない一般道を約 8時間走りスキー場へ!

大学卒業後、高度成長期で、昭和39年には東京オリンピックが開催され、月々残業時間が平均100時間を越える毎日。スキーどころではなくなり、会社退職まで約40年間忙しい毎日に明け暮れていました。退職後、好きなこと趣味?なんて考えたとき、学生時代に滑っていたスキーを思いだし、ネットで最初に開いたページが”スラロームスキークラブ”でした。

2000年の年末年始スキー合宿に参加した時、当町会の北島さんに出会いました。菅平高原スキー場、そこで見たものは、道具の進化で板は身長より10cm15cm短く、ブーツはインナー入りのフィット感あるものでした。技術も進化し、学生時代に滑った記憶あるシーハイルコース(裏太郎ゲレンデ)のスタート地点に立ったとき40年のブランクを感じた次第でした。
その後、クラブ員として区民大会、都民大会、城西五区大会等々のアルペンGS(大回転)SL(回転)競技に参加、排ガス等公害のない、動力なしでスピード感が味わえ、老若男女を問わず楽しめるスポーツ、スキーは元気でいられる限り続けたいと思っています。


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”希望ある限り、若く生きられる”いつも心にいいきかせて!
   和田一丁目町会 役員 生形 秀子

ご縁」とは、まことに不思議なものです。月島育ちの私が、この和田の地に越してきて、フラダンス講師 山口聿子(やまぐちのぶこ)先生との出会いがありました。先生から、趣味と実益(健康、老化防止等)を兼ね、是非ご一緒にと勧められましたが、私は若い時から民謡舞踊を踊っており、今更フラダンス?なんてと思い、ためらっていた処、先生はさすがに褒め上手で「生形さんは綺麗で姿勢も良いし、今の美しさの維持や病気予防に大変よい運動なので是非・・・・」

 自分ではそんなに綺麗だとか、姿勢がよいなどとは全く思ってもいませんでしたが、「ちょっとってみようかな?」と心が動き、レッスンに通い始めることになりました。そして早や50年の長きになりました。 

ここで私の生い立ちをお話したいと思います。昭和7年「佃」で生まれました。月島で育ち、昭和20年3月10日、深川で空襲に遭い、5月26日、秋田県に疎開しました。秋田で約7年間仕事につき、昭和27年に東京に上京。昭和28年結婚し、日本生命に8年勤務、その後結婚式場等の仕事にも従事しました。その傍ら地元小学校の校外活動で子供たちの引率などのボランテイアをいたしました。

 思い返しますと和田に越してきた頃の思い出は、近くの小さな川で子供たちが、ザリガニ取りや小魚すくい、七夕の笹流し等自然が多い場所でして、環境に恵まれたことが私を大らかな性格にしてくれたように思います。夏は製氷工場の水を利用して、山手温水プールで泳いだ記憶が、昨日のように思い出されます。

その後現在の和田一丁目町会の斎藤さん・水野さんのお父上から、お誘いを頂き、町会役員のお仲間にさせていただきました。
現在は、和田一丁目町会役員副会長・大宮八幡宮の世話役・地元老人クラブの副会長などをさせて頂いております。

 思い返しますと、フラダンスに長年没頭できましたのは、周りの皆様方のご協力があってのことです。フラダンスは、民謡舞踊と共通する部分もありますが、本場ハワイの先生方が日本に来て教えて下さったことも、大きな魅力の一つでした。また南国ハワイの音楽にあわせゆったりと身体を動かし(あるときは激しく)ワイキキの空・太陽と月・波・風・南国の植物(ハイビスカス、プルメリア、モンステラ、ブーゲンビレア等々)物語が踊りに盛り込まれていることを理解してくるとその魅力は、更に増してきます。

 「青春」とは、人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ、とサミエル・ウルマンは教えてくれています。まさに年を重ねただけで人は老いない、理想を失う時に初めて老いがくる。希望ある限り若く、失望とともに老い朽ちる・・・と。 今のわたしは、健康で元気に、そして気持ちを若く保てることは人生にとって素晴らしいと思えるようになりました。

 歳(よわい)は、毎年いやでもとりますが、気持ちを若く持ち、これからも、元気に過ごせたら・・・と心がけるようにしています。街でお会いしましたら、いつでも声かけをしてください。わたしの若さに気づいていただければ、これほど幸せなことはないと思います。みなさまも若さを保つために何かを心がけて頂きたいと念じつつ・・・。


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isaku
”おどり”は、私の心のよりどころ
   和田一丁目町会 役員 飯作紀世江

「継続は力なり」とよく言われますが、子供の頃から始めた「日本舞踊」を今では、60年になろうとしています。
私の父の兄弟が常磐津・長唄の師範で、父親も新内のプロでした。そのような家庭環境であったために、子供の頃に日本舞踊を始めるきっかけとなったのです。もちろん、私自身も元来芸事が好きであったことも、それに拍車をかけました。

そこで、母の知り合いの方にお願いして舞踊の世界に入り、子供心に一生懸命続けようと頑張りました。私の兄姉たちもそれとなく応援をしてくれました。今の時代は、新舞踊が盛んですが、昔は古典舞踊が主流でした。
 しかし、これからの人々は、古典は肩苦しく飽きてしまうし、見ても解らないと考え、現代的な新舞踊を習おうと思い、家元の高瀬順子先生を紹介していただき、佳久芳流に入門しました。

私が、高瀬先生のところに入門した時は、お弟子さんも沢山おられました。先生は、だれかれ差別なく熱心に教えてくださり、私も気分良く練習に通うことが出来ました。
 日本舞踊には、多くの「流派」があり、私が所属する佳久芳流新舞踊は、高瀬先生が独立して家元になっていますが、沢山の流派があり、とても楽しい雰囲気です。

今まで浅草公会堂の大きな舞台に毎年出演していますが、日本全国からの出演者と交流が出来て、楽しい思い出ばかりです。
 踊りは、手の指先から足の先まで神経を凝らし、肩や腰の科(しな)をつくり、目線をしっかりと定めて、「品よく・美しく・心をこめて」舞うことが基本で、古典舞踊も新舞踊も、この点は同じです。

いままで私は、「おとこおどり」を踊ることに生きがいを感じ、勉強をしてきました。
毎年、和田四商店会の新年会にお呼ばれをして、二曲ほどご披露していますが、これまでほとんどが「おとこおどり」でした。「おとこおどり」は、腰をすえてしっかり踊ることが最も大事です。
 女の私が、男になりきって、しっかりした間を取り、気骨さを表現しながら、優雅に踊り込むことが、見ている方々に「粋でいなせ」な姿に映るのだと思います。

もちろん、着物や小道具やお化粧に気を使い、お客さまに喜んでいただけるよう努力と工夫をしますが、衣装選びや小道具の工夫が、私自身の楽しみになっていることも、大きな魅力の一つです。参加され見てくださる商店会や町会の皆さまから、「迫力があってよかったよ」「立ち居振る舞いが凛凛しかったよ」などと、お褒めのお言葉を頂くと「おどり」をやってきてよかったと痛感します。

昨年秋口から、足腰を痛めたために、一年ほど踊りを休んでいますが、早く元の身体に戻って、心のよりどころである「おどり」を始めたいと願っています。
 これからも、街の方々のご支援を頂き、喜んでいただける私になりたいと、心から感じる昨今です。道で出会いましたら、気軽にお声をかけて頂き、明るい街づくりにもお役に立ちたいと望んでおりますので、よろしくお願い申し上げます。


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kasahara
   和田の街 「ありがとう!」
     和田一丁目町会 
役員  笠原 紀一 

「おはようございます!」いつもの職人風の人が自転車を預けて出かけて行った。まだ薄暗い水曜日の朝の六時半過ぎ、私のすまいる・わだ自転車駐車場の勤務の始まりである。
 私の家族が港区からまだ町名が和田本町だったこの地に引っ越してきたのは戦後間もない昭和二十四年、私が小学二年生の早春のことでした。それからの私? 歌詞ではないがあんな事、こんな事ありました。

救世軍病院の桜並木の下を雨上がりの水が勢いよく流れるドブに笹舟を流しながら学校から帰ったり、立正佼成会の第二道場の建設作業所の大工さんと仲良くなりコンクリートの枠板作りを手伝い?に通よったり、学校から帰ると建築の仕事が終わったその大工さんから届けられていた手作りの本立てを手に、嬉しさと大工さんともう会えなくなった寂しさと切なさを味わったあの日… 救心製薬わきの道路で一緒に馬跳び、ベイごま、キャッチボールをした近所の友達。あのころの街は元気でした。酒屋、肉屋、八百屋、魚屋、洗濯屋、お茶屋に炭屋、文房具屋、呉服屋…それも1軒ずつではなく。両側に並ぶ店々の間の狭い道路には中野駅から下高井戸行きのバスが走りオールウエイズの世界でした。

当時の佼成会の参道には幾軒もの茶店や食べ物屋さんが並び、特にご命日の日などは露天商やふうてんの寅さんやら今の原宿にも負けぬくらいの賑わいでした。そのような中、私は毎日、毎日自転車で杉並区を縦断するように通学、校庭でキャンプファイヤーを囲みフォークダンスを踊った高校の学園祭の思いで、大学の菱形の学帽をかぶり「あの娘と乗り合わせないかなぁ」などと思いながらバスで通ったりした大学生活

大聖堂が出来、中野富士見町に地下鉄が開通し、佼成会の本部が移りあの混雑と雑踏の参道は今は昔。父を卒業前に亡くしながらもまだ母がいると家業の「桃の湯」を継ぎ結婚し、家族全員全力投球。梅田たばこ屋さんの奥の馬場さんのお婆ちゃんが大きく曲がった腰を伸ばしながら見上げて「今日の番台はおぶやのお兄ちゃんかい」などと声を掛けられたりの穏やかな日々が徐々に時代の変化に呑み込まれ、五十余年に亘って皆様にご利用いただいたその「桃の湯」を三代目の私が閉めた苦悩の日のこと。   

私は和田商栄会の役員として大した事も出来なかったことや青色申告会の役員、セシオンの運営委員として、より大きな視点から地域のことを認識させられ、今まで以上に多くの方々に見守られ地域に育まれながら共に歩み続けなければならないことを痛感している。すまいる・わだの理事の一人として仕事の中に優しさ、誠実さ、謙虚さも込めて…

「ありがとうございました!」家路につく自転車の後ろ姿に声をかける今の私がここにいる。


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